畳(たたみ)替え
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畳(たたみ)替え
畳(たたみ)替えを大特価、1枚2300円にてお受けしております。
襖(ふすま)張替え
襖(ふすま)張替を大特価1枚、1600円にてお受けしております。
障子張替え
障子(しょうじ)張替を大特価1枚、1600円にてお受けしております。
対応エリア
畳・襖・障子・網戸の張替え新調専門店 九州たたみ本舗は、九州全域(福岡県・佐賀県・長崎県・熊本県・大分県・宮崎県・鹿児島県)と山口県の一部地域にサービスをご提供しております。
熊本市について
県の総面積の5.3%にあたる約390k㎡の市域に、県内人口の約41.5%にあたる約74万人の市民が住む。2012年(平成24年)4月1日に九州で3番目の政令指定都市に移行した。九州では、福岡市、北九州市についで、3番目に人口が多い。
肥後国府や肥後国分寺が置かれた地である。現在の市街は、細川氏熊本藩54万石の城下町を基礎に発展してきた。戦前は陸軍第6師団や国の出先機関が置かれ、九州を代表する軍都・行政都市として栄えた。2011年(平成23年)3月12日、九州新幹線鹿児島ルートが全線開通し、熊本駅に新幹線駅が併設された。
中心部は熊本城天守閣(地図)から見て南東から東に広がる。ただし、熊本城などからの眺望を確保するための環境基準により、中心部を含む熊本城周辺地域約550haには厳しい高さ制限がある。そのため中心部には高層ビルが存在しないが、当該地域の外にある熊本駅周辺の新都心地区には、くまもと森都心などの高層ビルが立地する。また、中心部を囲むように立地する熊本駅(地図)・上熊本駅(地図)・新水前寺駅(地図)のJR九州3駅が交通結節とされており、中心部との間が熊本市電によってつながれている。
当市の雅称「森の都」は、1930年(昭和5年)制定の熊本市歌の歌詞に取り入れられている。また、高度経済成長期からの急激な都市化で緑地が減少した1972年(昭和47年)10月2日、熊本市議会にて『「森の都」都市宣言に関する決議』が採択され、同市を「森の都」と称することが公式決定された。都市計画にも自然と共存した街づくりが盛り込まれており、「美しく活力ある森の都くまもと」をテーマに都市景観の形成を進めている。
一方で熊本市は、中心部を流れる白川・坪井川・井芹川の3本の川や水前寺成趣園、あるいは豊富な地下水、水前寺江津湖湧水群(平成の名水百選)などを称えて「水の都」とも呼ばれている。
その他、市民が「水と森の都」、市が「水と緑の都」と呼んでいる例が見られる。
福岡市から南へ約110km、鹿児島市から北へ約180km、熊本県の中央部よりやや北側に位置している。
旧城下町を中心に市街地が発展してきた。熊本城の東側に上通、下通、サンロード新市街と呼ばれるアーケード街が1km以上にわたって連なり、その周辺に中心市街地は形成されている。中心繁華街である通町筋・辛島町界隈には市役所、日本郵政株式会社九州支社、日本最大規模のバスターミナルである熊本交通センター(1日6,012本)、鶴屋百貨店などがある。なお、熊本駅(副都心)は中心街から南西に2km程離れて立地しており、その間は市電や路線バスでの移動となる。
阿蘇外輪山へと続く市の北東部や東部は、一部に立田山や託麻三山、白川沿いの河岸段丘など起伏のある地形もあるが、全体としては肥後台地(合志台地・託麻原(託麻台地))と呼ばれる阿蘇の火山灰土からなるなだらかで農地や住宅地に適した丘陵地となっているため、国道57号沿線の健軍地区 - 東町(東町・東本町団地)・桜木・帯山・長嶺・託麻地区 -武蔵ヶ丘地区を軸に住宅地や東町、長嶺、大江をはじめとする住宅団地が広がっており、さらに市域を超えて菊陽町(光の森)や合志市、益城町まで住宅地が拡大しつつある。熊本市の人口は中央部とともに東部・北東部に集中している(ベッドタウン)。これは、1953年の6.26水害の復興として、ゆるやかな丘陵地の北東部に住宅地が形成されていったため。
市の南東部 - 南部は熊本平野の一角をなし、平坦な風景が広がる。江津湖の南側から加勢川沿いの田迎・御幸・川尻周辺、さらに緑川を挟んで南側に位置する富合・城南にかけては低湿地であり、以前は大雨が降ると浸水する被害もでていたが、排水設備が整備された現在では宅地化も進んでいる(大規模なニュータウンとして、さんさん一丁目-二丁目など)。旧来からの広々とした田園風景も残っており、所々に小川やクリークなども見受けられる。富合南西部・城南南部は雁回山がそびえ、緩やかな丘陵地帯となっている。飽田・天明地区は主に干拓によって拓かれた田園地帯である。
市の西部は有明海(島原湾)に面し、白川や坪井川が注ぎ込む。海は遠浅で港湾とするには適しておらず、臨海部はほとんど工業化・都市化していない。わずかに沖合に人工島を造成し熊本港が建設され、対岸の長崎県島原市とのフェリー航路が設定されているが、周辺土地の分譲はほとんど進んでいない。市の北西側には金峰山(665m)・二の岳(685m)などがそびえ、その東麓は中心部から伸びる住宅地と森林が入り交じる。
北部・植木は主に金峰山北東の斜面地と、阿蘇から続く肥後台地の最西端からなり、独立して植木台地とも呼ばれる(この台地と玉名平野との境目が田原坂である)。名産として名高いスイカ生産や野菜生産をはじめとした畑作が中心で、ビニールハウスが一面に広がる。植木町の北部(田底・宮原)は合志川流域であり、菊鹿盆地と一体化した丘陵・田園地帯である。
東方にそびえる阿蘇外輪山一帯に降り注いだ雨は地下に浸透し、約20年かけて平野部に達する。この豊かな地下水によって熊本市の水道水はまかなわれ、水前寺成趣園や江津湖などにも湧出している。なお、世界の50万人以上の都市で、水道水源を100%地下水だけでまかなっているのは熊本市だけといわれており、「日本一の地下水都市」または「世界一の地下水都市」ともいわれる。しかし、近年は田畑の耕作放棄、森林の管理放棄などによる涵養地の減少や工場の取水などのため、地下水位は低下しつつある。現在、熊本市は菊陽町や大津町など白川流域の自治体と提携し、県やJA菊池、関係する土地改良区と共に協議会を発足させ、農家に水田から転換した畑などに一定期間水張りしてもらうなど地下水保全事業に取り組んでいる。
温暖な太平洋側気候である。また京都などの盆地型の気候(夏暑く、冬も寒い)にも似ている。年平均気温は概ね17 ℃前後で、年間降水量は概ね約1,500mm - 2,400mmの間で推移している。有明海に面しているもののまわりを山に囲まれていることから、盆地特有の気候で、夏冬の寒暖の差が大きい。特に夏場は「肥後の夕なぎ」と呼ばれる夕方の無風状態が続き、暑さが厳しいことが多々あるが、冬場の気温はよく氷点下まで下がり、2012年2月3日には最低気温-6.7℃を記録した。なお、前日の2日と2日連続で日平均気温が氷点下の-0.7℃となった。また、2016年1月25日にも最低気温-6.5℃を記録している。降雪日数は少なく、積雪は数年に一回である。春は桜の開花が高知などとともに早い。
幕末から明治にかけて、開明思想家として知られる横井小楠の活躍や熊本洋学校の設置、熊本の自由民権主義を牽引した植木学校の開校、熊本バンド結成など熊本に近代化の波が押し寄せる一方で、旧体制側である士族の反乱も勃発する。1876年(明治9年)には神風連の乱がおこり、そして1877年(明治10年)の西南戦争により植木の田原坂では激しい戦闘が繰り広げられ、さらに主戦場となった熊本の町は熊本城の天守閣を含め灰燼に帰した。また、1889年(明治22年)には大地震(熊本地震)にも見舞われた。
しかし、その後の熊本市地区は、熊本県(一時期は白川県)の県庁所在地としてだけでなく、九州の中央部にある主要都市ということで「九州の中核都市」と位置づけられ、熊本鎮台・第五高等学校など、九州域内を管轄する国家機関・教育機関が相次いで設置されていく。1878年(明治11年)設置の熊本区を経て、1889年(明治22年)、市町村制度施行により市制施行。当初の人口は42,725人。1900年(明治33年)に成立した鉄道唱歌第2集山陽・九州編で「九州一の大都会 人口五万四千あり」と歌われるに至った。そのため、新聞発行や電灯設置、放送局の開局などで熊本が九州初の事業地となることも多く、また第五高等学校が設置されたことから、夏目漱石や小泉八雲などの著名な作家が教師として熊本に赴き、熊本を舞台とした作品を残している(なお、森鴎外も数日ながらも熊本を訪れ、熊本にも関わりが深い作品(「阿部一族」)を残している)。
市内中心部の山崎には明治以降、武家屋敷を取り壊した跡地に練兵場をはじめとした軍施設が設置されたため、市街地が軍施設で分断されてしまい都市発展の障害となっていた。その後軍用地は、大正時代までに城内を除いてほとんどが大江や渡鹿など郊外に移転し、その跡地には新市街をはじめとした新しい商業・娯楽の中心地が形成された(軍用地であった名残として練兵町という町名が残っている他、軍用地の移転に力を入れた当時の市長・辛島格の名前を取って辛島町という町も誕生している)。
大正に入ると近代都市としての整備に拍車がかかる。熊本軽便鉄道・菊池軌道・御船鉄道・熊本市電・バスといった交通機関の拡充は市街地の拡大にもつながり、1921年(大正10年)には春日や黒髪、島崎など周辺町村を大合併して人口は13万となり、これまで旧城下町内だけにとどまっていた市域が郊外へ大きく広がることになった。また、1922年(大正11年)当時の市長・高橋守雄は市三大事業(上水道の整備・市内電車の開業・歩兵第23連隊の完全移転)を掲げ、これを実行に移すことに成功した。それまで南千反畑にあった市役所も、1923年(大正12年)に手取本町の現在地に移転している。
昭和になると桜町一帯に勧業館や公会堂といった施設が立ち並び、隣接する新市街には当時の最新の娯楽である映画館が多数オープンし、それまでの古町にかわる新たな都市核として急発展する。市内中心部には「千徳百貨店」や「銀丁百貨店」といった百貨店も開業。
熊本市は九州一の大都会となり、代表する都市として発展を続けていった。