畳(たたみ)替え
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畳(たたみ)替え
畳(たたみ)替えを大特価、1枚2300円にてお受けしております。
襖(ふすま)張替え
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障子張替え
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対応エリア
畳・襖・障子・網戸の張替え新調専門店 九州たたみ本舗は、九州全域(福岡県・佐賀県・長崎県・熊本県・大分県・宮崎県・鹿児島県)と山口県の一部地域にサービスをご提供しております。
八代市について
八代市(やつしろし)は、熊本県南の中心的な市で、県下第2の人口を有する田園工業都市。日本三大急流の一つである球磨川が分流して不知火海に注ぐ三角州地帯の北岸に市街地がある。江戸時代には、熊本藩主細川氏の筆頭家老松井氏の城下町として栄えた。
江戸時代以来の干拓によって広がった平野部では農業が盛ん。畳表の原料となるいぐさの生産は日本一で、国産の約8割を占める。ただし、近年は安い中国産に押され、作付面積が最盛期の3分の1と急激に減少している。また、国内最大の柑橘類・晩白柚(ばんぺいゆ)も特産品で日本一の生産量を誇る。最近はトマトの一大産地としても知られる。
明治時代になり八代港が近代的な港湾として整備され、1890年(明治23年)に九州第1号のセメント工場ができたのを皮切りに、以後製紙工場(九州製紙、現日本製紙)、日曹人絹パルプ(現興人)、昭和酒造(現メルシャン)と相次いで進出し、工業都市へと発展した(八代臨海工業地域)。
戦中、戦後を通して田園地帯や海岸埋立地に新しい工場が立ち並び、いぐさの生産も伸びて繁栄。当時、商店街、歓楽街や日奈久温泉の賑わいは熊本一だったという。しかし、近年は中心部の大型店の撤退や郊外の大型ショッピングセンターの進出などで中心市街地の活性化が課題になっている。
毎年11月に行われる八代神社の「妙見祭」は、長崎くんち・博多祇園山笠と並ぶ九州三大祭。御輿、獅子舞、神馬、花馬、傘鉾、亀蛇(がめ)などが居並ぶ行列は1kmに及ぶ。秋には毎年数十万人の観光客が集まる「やつしろ全国花火競技大会」が行なわれる。
八代平野の南端にある日奈久温泉は、合計16の泉源が集中しており、湧出量は毎時140トン、ほとんどの旅館がかけ流しである。江戸時代に熊本藩の藩営温泉場として栄えた。のんびりとした風情で、薩摩街道筋を中心に明治・大正・昭和の町の区割りがそのまま残っている。日奈久の名産として、細川氏の御用窯だった高田焼(こうだやき)や竹細工、ちくわが知られる。
西部は不知火海(八代海)に面した平野部で、その大半は江戸時代以降数次にわたる干拓によって広がったものである。東部から南部にかけては九州山地の深い山間部で、合併によって市域は平家落人の里として知られる五家荘まで及び宮崎県と境を接する。
肥後国誌には「八代」の地名の由来は社(やしろ)で、天照皇太神の山陵が上古にこの地に在ったので「やしろ」と言われるようになったと記されており、九州王朝説では倭姫命が定めた伊勢神宮のあった伊勢の有力候補地とされる。(参照→九州王朝#伊勢神宮)
景行天皇十八年(88年?)が九州を巡幸した折、休息されたとされる芦北の小島は八代市の球磨川河口にある水島である。
6世紀には、百済に仕え二位達率と極めて高い官位を与えられた後に朝廷に招かれた日羅大師の父阿利斯登を輩出した。
推古天皇十七年(609年?)には百済の道欣恵弥ら僧11人と俗人75人が芦北の津(八代)に入港した。
古来より八代は博多、坊津と並ぶ九州の対外貿易港で、みかんが中国南部より伝来した地であるとされる。平安時代末期には日宋貿易を重視した平清盛の所領であり、鎌倉時代になると執権北条氏の所領となった。室町時代初めの1334年に建武の新政時の功績により伯耆国で海運業を営んでいた名和長年の子、名和義高が八代荘地頭職を賜り、古麓城と城下町を築いた。名和氏は、隣の球磨郡の領主・相良氏と室町時代を通じてたびたび争ったが、1504年、相良氏が名和氏を追い八代に進出。相良氏は本拠を古麓に移し、徳淵津(徳渕津)が中国との貿易港として大いに栄えた。しかし、1582年には相良氏は南の薩摩・大隅から勢力を伸ばしてきた島津氏に服属し、八代から退いた。
その後の1587年には島津氏も豊臣秀吉の天下統一の過程で行われた九州征伐で八代を追われた。当時の八代の人口は五万を数え肥後国の中で最も栄えていると記録されており、秀吉は隈本城や古麓城など肥後を佐々成政に与えたが徳渕津は豊臣家の直轄領とし番大将として寺西次郎介が入った。肥後国人一揆で佐々成政が滅亡した後、肥後国南部の領主となった小西行長は、古麓城を廃城とし新たに八代支配の拠点として1588年に 麦島城を築いた。関ヶ原の戦いの後、熊本城主・加藤清正が肥後一国の領主となり、1612年、城代として加藤正方が麦島城に入った。
1615年に一国一城令が出されたが、麦島城は一国一城令の例外として残り、肥後国は熊本城と麦島城の一国二城体制となった
1619年、麦島城は大地震によって崩壊したが、幕府の許可により松江城(八代城)が新たに築かれた。築城当時は、南北811メートル、東西1477メートルの大規模な城で、現在は本丸の石垣と堀が残っている。幕府が一国一城令の例外として築城を認めたのは、島津氏に対する備えのためといわれる。
1632年、加藤氏の改易により、細川忠利が肥後の領主となると、その父・細川忠興(三斎)が隠居所として松江城に入城。1645年に三斎が亡くなると、筆頭家老の松井興長が入城した。以後幕末まで松井家3万石の城下町として栄えた。
1688年に城主松井直之が築いた御茶屋「松浜軒(しょうひんけん)」が今に残り、国の名勝に指定されている。ハナショウブなど四季折々の花が美しい庭園を備え、園内の松井文庫の資料館には松井家の家宝が展示されている。
1821年には、江戸時代の肥後国最大の干拓事業である七百町新地(鏡町)の干拓が行われ、米2,400石、塩1,600石の増収となった。